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皇帝達の広場 [学問]

今日は比較芸術学です。
日本と西欧の都市空間を比較すると、大きな違いは広場だと思います。
日本にも広場はあるでしょうが、その歴史や意義などに違いがみられるとい思います。まず日本です。
「大岡越前」で審議の場は建物の中と庭を一体に使います。
庶民の町家には家の外側にたためる椅子のようなものがあることも。
庭や道路がなんらかの役割はたしたように思えます。

それにたいして西欧は広場が重要なようです。町(旧市街)にいくつも広場があります。広場に面して、教会や公共の建物があったりしたようです。でも広場はそういう広場だけではなかったそうです。ローマには皇帝たちの広場(フォルム)というのがあったそうです。
場所はローマの中心で、コロシアムやローマ中央駅(テルミニ駅)などが付近にあるそうです。

ルクレツィア・ウンガロさんによると、これは政治宗教経済の中心だったそうです。

共和制時代中心であったフォルムが共和末期に機能失いつつある時に、カエサルさんが建造したのがカエサル広場だそうです。紀元前46年だそうです。
前2年ローマ帝国確立記念にカエサル広場北東に隣接してアウグストゥス広場
75年にユダヤ戦争勝利記念にその東に平和の神殿
ネルウァ広場(97年)
西にはトラヤヌス広場(113年)とトラヤヌス市場
5つの広場が作られたそうです。


トラヤヌス市場は名前と違い市場ではないのではと言われています。作りがどうみても市場ではないそうです。またトラヤヌスには市場がありますが、まだ神殿が見つかっていません。
 これらは戦争で得た膨大な富によって建造されたそうです。広場の奥には皇帝を守護する神に捧げられた神殿が作られたそうです。
建築はもとより絵画、彫刻、装飾品などいろいろな芸術の結集だそうです。建築家や個々の芸術家を束ねるプロジェクトリーダーのような人がいたのでは?と推測されたいるようです。このリーダーは注文主である皇帝と守護する神との間をとりもつ極めて重要な役割を担ってたのかもしれません。
戦争を正当化して、新しく市民に組み込んでいったそうです。皇帝たちの広場は裁判や行政の機能をはたしたそうです。
ウンガロさんはこう述べてるみたいです。
皇帝たちの広場とは政治とイデオロギーの、大理石によるマニフェストであった




ウンガロさんの著書・論文
アウグストゥスの広場
帝政の合意の場としてのアウグストゥスの広場とトラヤヌスの広場



参考に
権力と館http://life-ayu.blog.so-net.ne.jp/2007-11-30-1どうぞ

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コメント 1

ayu15

きぃさんありがとうございます。
ローマに行く事あればこのお話思い出してもらえると幸いです。
by ayu15 (2008-05-30 22:02) 

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